【WANDS編】上杉昇の生い立ちから現在までの軌跡を語る

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もーりー
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being大好きもーりーです!

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上杉昇さんのWANDS加入後を教えてくれ!

 

上杉さんの生い立ち前半編はこちらをご覧ください。

さて、波乱万丈の幼少・青年期を過ごしWANDS加入が決まった上杉さん。

ここでは、WANDS加入から脱退までのエピソードをたっぷりご紹介していきます。

上杉さんのシンデレラストーリーの裏側を、ぜひじっくり読んでみてくださいね。

 

動画で見たい方はこちら↓

【秘話】元WANDS上杉昇の生い立ちから現在まで(WANDS編)
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WANDS結成からデビューまで

ビーイング音楽振興会で才能を見込まれ、WANDSのヴォーカリストになった上杉さん。

それからメジャーデビューまでの数ヶ月間、大島康祐さんの自宅で缶詰状態だったそう。

詩を書くこと、歌を歌うこと、この2つの作業をひたすらやっていたんだとか。

 

この頃、上杉さんは神奈川県大和市の方で一人暮らしをしていたようです。

深夜まで大島さんの家で作業して帰る、この毎日の繰り返しは相当辛かったそうです。

初期WANDSは「打ち込み」「J-POP」でしたし、ロック好きの上杉さんは苦しかったでしょうね。

 

第1期WANDS時代

1991年12月にデビューした第1期WANDSですが、その頃の上杉さんはどうだったのか。

色んな角度から、当時の上杉さんを見ていきたいなと思います。

 

日々の活動

1stシングル「寂しさは秋の色」でデビューした後、上杉さんは勉強の日々。

作詞はボーカリストがやるべきというビーイングの方針から、詩の書き方を習得。

ビーイングには小松さんという詩を教えてくれる人おり、上杉さんも教えてもらったそう。

 

特に勉強になったのは、魚住勉さんという作詞家さんのようです。

魚住さんといえば、WANDS最大のヒット曲「もっと強く抱きしめたなら」の作詞担当。

上杉さんとの共作となっていますが、ここで多く学んだと語っておられますね。

 

ちなみに、この時期は六本木のスタジオに行って楽曲制作をする毎日だったそう。

ビーイングはメディアへの露出を控えていたので、テレビや雑誌の対応はあまりなし。

ひたすら毎日制作とレコーディングを続けて、エンジニアも夜通しの作業だったと。

 

心境の変化

この頃の上杉さんは、ご自身の心境の変化についてあまり語られていないんですね。

これは推測ですが、毎日新しいことだらけで気持ちを整理する余裕がなかったのでは。

厳密には、もっとロックな音楽をやりたいものの、目の前のことで手一杯って感じかな。

 

第1期WANDSは、3rdシングル「もっと強く抱きしめたなら」で終わっています。

この曲で爆発的なヒットを記録したとはいえ、それまでの曲はヒットに恵まれず。

上杉さんも必死に頑張っていたと思いますし、ガムシャラにやっていたと思います。

 

大島康祐の脱退

第1期WANDSが終わりを告げたのは、キーボード大島康祐さんの脱退でした。

1992年7月「もっと強く抱きしめたなら」をリリース直後に、大島さんは脱退しました。

 

脱退理由は諸説あるんですが、新しいバンドを組むためという理由が公式な情報。

1993年には実際に「SO-Fi」というグループを結成していますね。

 

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脱退の理由はホントはバンドや事務所との不仲?

 

こういう疑惑が浮上しているのですが、私はこれはないと思っています。

なぜなら、脱退後もWANDSに楽曲を提供し続けていますし、所属もビーイングです。

また、第4期WANDS復活の際にもメンバーに入っていましたし、確執はないようです。

 

第2期WANDS時代

1993年後半から始まった第2期WANDS、ミリオンヒットを連発した時代ですね。

この頃の上杉さんは、どういった動きをしていたのかをご紹介したいと思います。

 

キーボード木村真也の加入

大島さんが抜けてから、キーボードに木村真也さんが加入することになります。

木村真也さんのことは、上杉さん自身も才能を認めていて、特にバラードの作曲能力について絶賛しています。

 

上杉さんを唸らせたのが、アルバム「PIECE OF MY SOUL」に収録のこの曲。

MILLION MILES AWAY

 

これは第2期WANDSで唯一木村さんが作曲した歌で、上杉さんが評価している一曲。

第3期の和久さんもカバーして歌っていますが、本当に素晴らしいと私も思います。

 

木村さんといえば、青森県出身で幼少期からクラシックを聴いて育った人。

自宅には大量のレコードやCDがあるそうで、いわば音楽オタク・コレクター。

そんな木村さんが作ったこの曲は、本当に綺麗で透き通った音楽だと感じますね。

 

木村さんの紹介はYouTubeでやってますので、気になるかたはどうぞ!

WANDS超一流キーボーディスト木村真也さんを紹介!

 

カート・コバーンの死

1994年4月に上杉さんが大好きだったNirvanaのボーカリスト、カート・コバーンが自殺

この出来事は上杉さんに大きな影響を与え、その後の音楽の方向性を決めるきっかけになりました。

 

第2期WANDSに入り、上杉さんは次第に自分が追い求めるロックに渇望し始めます。

ミリオンヒット連発の一方、上杉さんはJ-POP路線の事務所への不満を募らせます。

やっていることとやりたいことのギャップが上杉さんを苦しめていたのです。

 

そんな矢先のカート・コバーンの死を受け、自分のやりたい音楽を追求し始めます

それが1995年2月発売の「Secret Night 〜It’s My Treat〜」というシングルで爆発。

これまでのJ-POP路線から一気にロックへ舵を切った、衝撃の作品だったのです。

 

Same Side

WORST CRIME〜About a rock star who was a swindler〜

 

その後に発売した上記2作品もロック色が強く、ファンも戸惑いを隠せない状態でした。

ただ上杉さんは、徐々に自分のやりたい音楽へシフトさせて勢いづいていったんですね。

 

WANDSからの脱退表明

ロック路線へ切り替え、求める音楽をやり始めた上杉さんでしたが、事務所と衝突。

この理由は、事務所側から提示されたWORST CRIMEの次の曲がまたJ-POPだったから。

 

beingman
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そんなことがあったのか。。

 

ずっと悩みながらWANDSを続けてきた上杉さんでしたが、脱退を決意。

ソロで自分の音楽を追求することを選び、事務所を移籍することになりました。

 

なお、このタイミングでギターの柴崎さんも脱退を表明しています。

理由は「上杉さんのいないWANDSは想像できない」とのことでした。

その後al.ni.coとして2人組で活動しますが、脱退時にはソロの予定だったそうです。

 

こうして上杉さんと柴崎さんはWANDSを脱退して、第2期WANDSは終了。

WANDS自体は、残った木村さんが新メンバーを加えて存続させてくれました。

そして上杉さんは、また新たなステージに向けて音楽活動をスタートするのでした。

 

まとめ

今回は上杉昇さんのWANDS時代のことについて、ご紹介してきました。

人気とは裏腹に、葛藤しながら音楽活動をしていたのがこの時期と言えますね。

そのことを踏まえて、改めて歌を聴いたり歌詞を読むとよりWANDSが好きになります。

 

もっと深く上杉さんのWANDS時代を知りたい!という方は、自伝本がおすすめです。

上杉さんの生の言葉がたくさん詰まっているので、ぜひ読んでみてくださいね。

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